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利休の創意 [利休にまつわる話]

利休の創意として挙げられるモノの一つに「棗」があるだろうか…?

今の黒ベースに傾いて行く契機にもなったのだろうが…

その”黒さ”と言うものを考えると、果たして、今とは違って電気が無い時代での茶室で、どの様に見えるのだろうか…?と言う事が気になる部分ではある。

今の現代人とは違って…もっと目も良かっただろうし…遠目も利いたであろうが…茶室の薄い障子を通してしか入らない「光」の中での「棗」の動きは、なかなか想像が難しい。

ある意味…? 金での蒔絵や沈金をしたりすると言う事であれば、それが光を反射して「棗」を浮き彫りにするのは分かるのだが…全くの「黒」である場合には光の反射を考えるのは難しい。

そう言う意味で…「棗」には、利休の作意を感じる…訳なのだが…

果たして…それは何だろうか…?と考えると…やはり「集中力を高める」と言う部分+「黒は没入するカラーリング」と言う事を掛け合わせているのではないか…?と思う部分ではある。


利休作の3つの花入れ [利休にまつわる話]

小田原征伐の際に利休は3つの花入れを作っている。

「園城寺(おんじょうじ)」「夜長(よなが)」「尺八(しゃくはち)」

伊豆の韮山の竹を用いて作ったものだが、「園城寺」は息子の少庵に、「夜長」は自分が、「尺八」は秀吉に…と。

この在り様から何を想像するか…は色々だが…”極めて素朴”に考えるならば…

「秀吉」「利休」「少庵」の仲の良さ(?)なり結びつきの深さを語る所だろう。

この「園城寺」には、秀吉が癇癪を起して投げつけた際の”割れ”がありますが…
(そこから…水が少し漏れるのが風情ともされるが…)

後に「三井寺(天台寺門宗の総本山)」が…秀吉から欠所を受ける事と相俟って…

何か…秀吉の心に、この「花入れ」と「利休」とに含む所が出来た…と考える事も出来るのでしょう。

それは、秀吉用にと作った「尺八」を、利休が自刃後に壊している…と言う事からも…何かを表象している…と。

タグ:花入れ

”たぎる心” [利休にまつわる話]

「茶の湯」の心映えの一つとして……重要なモノの一つとして「たぎる心」と言うモノを挙げる事が出来るだろう。

”利休はぬるい心を嫌った”……とある。

この表現だけを聞くと…非常にドッキリとする部分でもあるが…

”ぬるい”…要するに、いい加減であったり…マンネリと言う事であろう…

お茶をやっている期間が長くなってくると…当初は不安だった手順にも慣れ…

また失敗した時の、しまった感や…くやしさ…と言った感情も薄らいでくる…

しかし…それを常に持ち続けていくならば…点前を常に緊張している事になり…それもどうかと思う部分だろう。

要は…点前が出来るようになったら…次に何を考えるべきなのか?

今日を演出してくれた人は、何を考えてくれたのか…?

「お菓子」「しつらえ」「花」……等々

つまらない日常の事であっても…そこには、それを出した人の作意が横たわっている。

それを”汲み取る”と言う事に至って…初めて…”茶の湯の入り口”に立つのであり…

そこからが…絶え間ない…それこそ終わること無き登山の始まりなのだろう。

”たぎる心”の一面としては…その様なエネルギーとしての心構えを示唆しているのだろう。

西瓜に砂糖 [利休にまつわる話]

モノの本質と言うべきか…に繋がる話しでもあるが…

利休が茶会に招かれて「西瓜」を菓子として出されたのだが、その西瓜に「砂糖」がかけられていたので
”砂糖のかかっていない部分を食べて帰った”と言う故事がある。
(「雲萍雑志」より……これは、”美味しんぼ”で板山社長が茶を習う際にも出てきたシーンですが w)

「取り合わせの妙」と言う事や「事物の本質」と言う点で、屋上屋を架す的な事は無意味であるどころか…かえって、その本質を遠ざけて濁らせてしまう的なお話ではあります。

個人的には、「もてなす側(飛喜百翁)は、かなり気を遣った筈」なので、何もそこまでしなくても(?)
と思ったモノですが……

まあ、確かに”グレープフルーツに砂糖”と言う感じで出されると、「う~~~む」(@_@;)となってしまう事を考えると…(或いは、”苺に練乳”と言う場合も)

この「利休の故事」の意味する所は、分からなくはありませんが(w

まあ、それなら、そこは「砂糖がまぶされた西瓜を食べて」
その後、自分が催す茶会で「砂糖抜きの西瓜」を出せば良いのでは?的に考えたりもする訳です (;一_一)

この辺の”厳しさ”が、利休の利休たる所以と言う事になりそうですが……

今日は大発会 [利休にまつわる話]

千利休と言えば…堺の豪商ですが……

その豪商としての地位を築いたという事でも非凡なものがある訳ですが……

それを象徴するともいうべき言葉として…

「人の行く裏に道あり花の山」と言う言葉(相場格言)があります。

まあ、そのまんまの言葉ではありますが……

何とも、商売の基本(相場の基本)という事を端的に表現もしているだろうし…

安土桃山時代において、一つの文化的な主柱を打ち立てる事が出来た、その質をも表してもいるだろうし…

いずれにしても、現代の相場格言にまで残る名言の一つが「千利休」と言う部分に、妙味を感じる所でもあるわけです。

おりしも、今日は「大発会」……「うさぎ年」を象徴する良い年月でありますように (・▽・)/
タグ:大発会 相場

花は野にあるように [利休にまつわる話]

「花は野にあるように」

千利休の有名に過ぎる言葉だが………

これを模した話として、「ギャラリーフェイク」と言う細野不二彦氏のマンガがある。

主のフジタが茶会で招かれて、”利休にふさわしい花”を生けるシーンがあるのだが
フジタが生けた花は「向日葵」
夏の太陽を映した向日葵を縄文土器に生けると言う形で茶席を飾る。

多分に、約束事と言う観点からいけば、フジタの「向日葵&縄文土器」は受け入れられない?
と言う事なのだろうが(実際に、マンガの中でもフジタの様式は退けられている)

個人的には、その「向日葵」の意匠と「縄文土器」の組み合わせに、一つのパッションを感じるのだが……

まあ、エネルギッシュに切り開くと言う事と、それを守り育てていくと言う事は
また違うと言う側面を表してますかな。


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